2010/02/24(水)2月23日のつぶやき まとめ 愛について 美しさについて
朝は愛について考え、
昼は美しさについて考え、
夜はとくに何も考えなかった。
そんな一日だった。
朝
http://togetter.com/li/6084 と 6203 を読むなどしてました。「世の中にいろんな人がいるなぁ」と思います。ぼくはもう疲れました。
人々の絡みを見ていて思うに、その発言からあまり専門性を感じさせない人こそが、最大公約数的に絡みやすく、愛されやすいのではないかなぁと思った。愛されやすいだけであって、魅力があるかと言われると必ずしもそうでもないのですが。と、当たり前のことを考えていた。
東広島在住です。ときどき、衝動的にドクペが飲みたくなるんですが、どこか取り扱っている場所はありませんか。
ホワイトボードのトピ主さんも、何かしら彼を惹き付けるものを持っているのでしょうか。まぁ、いい人というのは、わがままな人のそばにいてこそ、その真価を発揮するものだとは思うんですけどねー。僕はそこまでいい人にはなれんですねー。
世の中にはいろんな愛の形があるとは思うんです。私も私なりの愛を注いでいます。しかし、それはあくまで私なりの愛であって、相手が欲しい物、必要な物になるとは限らない。私が受けている愛もまた同じで、私が必要としているものとなるかどうかはわからない。
それはひどく自己中心的というか、わがままな考え方。自己満足であり自己愛以外の何物でもないようにも思える。しかし、私なりの愛を対象に向けて注いでいられれば、それで満足しちゃう。何に対しても、穏やかにそれを見ていられれば、それでいい。あ、したいことがないわけではないのですよ。
私は人から愛されていると感じています。でも、あるいは、だからこそ、私は人から愛されることを望んでいない。私は人には何も望まない。私は愛されなくてもいい。ただ愛せればそれでいい。見方考え方によってはひどく歪んでいますか。私は人を愛せていない。これを愛と呼んでもいいのでしょうか。
愛という言葉の定義は人によってまちまちです。抱く情景も抱く感情もみんなバラバラ。同じ歌を聴いて抱く情景がみんなバラバラであるかのように。だから「見かけ上」共感できる。その実は、言葉以外の何も共有していないので、私の発する「愛」という言葉の定義は私が自由に決めてもよい。あなたも。
誰もが自由に言葉の再定義を許してしまったら言葉を使う意味がなくなってしまうかもしれない。しかし、私の気持ちは私しか知らない。私でさえ知らない部分もある。説明してもどうせわからない。私の望む物は言葉では表せないし、すでにあきらめた。その次の段階としての今がある。現実。落としどころ。
わがままを言っても叶わなかった。わがままは叶わない。わがままを言うのはやめよう。あなたもわがままを言ってもきっと叶わない。私はわがままなままに、私なりの私が愛と呼ぶ物をふりまくわがままを続ける。あなたもわがままに生きればよい。それが現実の裏側で、実は「愛=わがまま」というオチ。
ああ、私にとって愛はわがままだった。そして、これからも私はわがままに生きていく。さぁ、私のわがままな2010年2月23日を始めよう。今日もやることがたくさんある。がんばるぞ。
あれ、ふりだしに戻っただけじゃんwww 慣れないこと考えるのには頭が沸いているなぁ。
物事を考えた後で、いつも自分の頭の悪さにひどくコンプレックスを感じる。人はこんなことを考える時間というのは遙か昔に済ませてるのではないか。私にとって怖いのは人々に愛されないことなどではなく、人々においていかれることなのだと、改めて感じる。それはとても怖い。だから今日も、前に出る。
お昼
C++0xってどうなんだろうなぁ。
最近のC#もそうなんだけど、やっぱ、拡張拡張拡張拡張で、最初にあった言語の美しさみたいなのがどんどん損なわれていっちゃうというか。そういう意味で、Perlとかすごく苦手。パワーがあるのは認める。でも、人工美がない。パワーと人工美を兼ねそろえた言語ってないのかなぁ。
脳内のモデルの「設計が美しい」というのはあるけど、それを何か言語で書くときに僕は、可読性云々というよりも、ソースコードの"見た目"の美しさに惹かれる。ソースコードなんてPG以外みないんだけども、使う記号の種類とか、演算子と項の間はスペース空けるとかそういう細かい部分まで含めて。
ソースコードは芸術。プログラムは芸術。そういう意識がある。Javaのメソッド宣言につける public は美しいけど、C++の、public:は美しくない。extern "C" って何? ふざけてんの?ww と思ってしまう。
何かをするために手段がたくさんあるのはいいと思う。でも、何かを表すのに言葉が何通りもあるのがあまり気持ちよくない。言語拡張によって互換性を保持するのではなく、バージョンを切り替えた相互運用をすべきだと考えてる。int main(void) や autoの意味が変わるように。
typedef と using どっちでも同じことができる。しかし、利点が見えない。たったひとつの冴えたやり方を選べる言語であってほしい。だから、私は言語策定者のやりたいことが変わるのが問題なのであって、必ずしもパワーと人工美がトレードオフだとは思ってない。きっとできるはず。
そういうこと言うやつは、隅に追いやられるのかもなぁ。まぁ、今C++がデファクトスタンダードなんだけど、C++0xは果たしてスタンダードになるのだろうか。言語か高機能化すれば、それを動作させる機械も高度なものが必要になる気もする。ハードウェアの制約でCも使われてる、とか。
なんつーか、「言語の美しさ」っていうのも主観だから、僕が美しいと感じるものと世間一般の美しいと感じるものがズレてんですかねー。C++0xのパワーを認めつつ、美しいと感じる人って僕のフォロワーさんの中にいますか? いたら是非教えてください。お願いします。
夕方
欧米人の140文字と、日本人の140文字、中国人の140文字は、ぜんぜん意味の分量が違いそうですねぇ。つぶやける量の感覚もだいぶ異なりそう。
そういえば、結局、気になっていた「ピアニストによるタッチの違い」に関する卒論の発表を聞きに行けなかったんだよなぁ、どんな内容だったんだろう……。
ねむいのでねる。日付が変わる前に起きるつもり。そうしないと、1社しぬ。よし。おやしみ。
なう
ふぉおおおおおおお