2009/07/08(Wed)情報とデータと評価と伝え方に関する考察

はてブ数 2009/07/08 1:15 独り言 つーさ

情報に変化はなく、変わっているのは状況であり人である。情報が「生もの」だと思うのは、「昨日の情報」と「今日の情報」が違うものであることを、解していない。情報とは即ち歴史のこと。現在はあっという間も与えられず過去になる。エネルギーは連続量を取ると思っていたのに離散だった。はたして時間とは連続なのか離散なのか。

「がんばったんだから誉めて!」という子供は誉められなくてはなるまい。それは子供に限った話。誉め、かつ改善点を指摘し、よりよいモノへ導くことができるのだろう。真剣に批判するつもりでも、まず誉めれば上手くいくあたり、人類はみな子供なのだろう。

がんばっただけで誉められるのは、せいぜい中学校か高校生くらいの年齢までで、そこから先は結果を出した人間のみが評価されるものだろう。たとえがんばった結果が芳しくなくとも、どんなに叩かれようとも、結果は結果。

人格攻撃と批判の違いはそこにあるのだけど、それが相手に混同されてしまえば元も子もない。伝わらないのは説明が下手くそだから。下手くそ。下手くそな説明にいらいらして文句を言うのだけど、その文句も上手く伝える努力をせねば、下手くそな説明と同じレベルに落ちてしまう。

時には一歩引いて、メタな視点から冷静に事の運びを見つめ、マクロな利益を生むように物事を持って行かねばなるまい。こんなことを言うとまた「何様だよ」と嘲られるのだろうか、何様だよと私を嘲る貴様は何様だよ。

頭がいいというのは、難しい言葉を理解できることではない。いや、難しい言葉を理解できるのは確かに頭がいいのかもしれない。でも、もっと違う頭の良さがあって、たとえば難しいことを頭の良くない人間にも、万人にも理解できるよう説けるのが頭のいい人間であると私は思っていて、同時に自分の頭の悪さにコンプレックスを抱えているのである。

数学は難しい。しかし、その言語体系は非常にシンプルで、既にわかっていることから演繹しているだけだ。既に人類がわかっていること、証明されていることに関して言えば、しっかりその筋道を追えば、わからない人間はいないはずだ。知らないからわからないだろうと思ったり、直感的な発想と食い違って飲み込めなかったりということこそあれ、それは絶対的に正しいことの集合であり、わからないというのはそれこそわからないことだ。# 記憶力が無限に存在するという前提が必要かも知れないが。

相手のレベルに合わせて話をする、相手の感情や心理的状況を計算に入れて話をする。そうしないと、それはもはや話ではなくなってしまう。それは攻撃か、はたまた念仏かである……。何かを相手に伝えるスキルとしての頭のよさ。

考え方によっては、それはつまり結局のところ、自分の思い通りに人を動かすこと、なのかもしれないのだけど、本当に頭のいい人間にはそれができるし、(功利主義であれば)それをしてよいと思う。そういう人間に気に入られたいという思いもある。かつて「猫になりたい」と書いたことがあるが、それはそういう意味だ。

あぁ、頭よくなりたいなぁ。

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歴史は失われてもよいと思うか。データは消えてもよいと思うか。その答えにかかわらず、そもそも、歴史は失われ、データは消えるものだ。情報のすべてを取っておくことなど不可能だろう。私はゲームを作ったが、これを残したいと思わない。刻まれた歴史は風雨に流され、腐ったデータは生ものだからだ。決してデータが変化しているわけではなく、私の心が残したいと思わないだけ。失われてよいじゃないか。すべてを残す必要などない。

歴史としては、たとえば戦争があるだろう。私は平成生まれでこそないものの、もうほとんどそれに近い年齢で、かつて日本に戦争があったことなどは想像も難しい。歴史として学んで知識として知ってこそいれ、そこに伴ったであろう感情の情報を持っていない。幸いにして、2人の祖父も2人の祖母も私の顔を知っていた。それでも、私は感情の情報を持っていない。私が興味を持たなかったというのもあるし。未来から見た過去にあたる今、世界のどこかでそれは起こり、人々は苦しんでいた。人々は、その歴史をどう見るのか。そもそも、誰かがその歴史を見るのだろうか。

情報は、データは、それだけでは何の意味も成さない。観測されたデータは、分析され、情報として解釈され、さらにその情報が誰かに認識されて、初めて存在が認められる。今私が刻んでいる歴史は、将来誰かが認識するのだろうか。誰かの役に立つのであれば、それは残してもいいと思う。しかし、ノイズだらけなのだ。ノイズのないデータは存在しない。それにしても、あまりにノイズが多すぎるのだ。役に立つのか? ……あ、ノイズが多すぎる役に立たないデータとともに、その観測方法も残せば、誤った観測方法を示すことができるという点で、いいのか。うーん。それを解釈する人間の時間が無限にあるのなら、いいのだけど。そうでなければ、余分なデータや情報はない方がいいのよね。

今後解釈しようともしないデータを整理するだけというのは、不毛な気ががするのだ。昔のハードディスクのデータとか。それとも、解釈するのかなぁ。いや、解釈せねばそもそも整理などできはしないのであり、整理しながら解釈していることになるのか。ちょっと私を楽しい気分にさせてくれる情報には出会っているのは確かだけど、その確率は低い。これを続けることに私の有限な時間を割くほどの価値が本当にあるのか? 甚だ疑問に感じたのでもうやめる。

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読み返してみると、説明不足で、どうにでも解釈できてしまい、意味が揺らいでいる部分がたくさんある。気に入らない。つぶやきだから、誰に伝えたいわけでもないし、これはこれでいい。のではなくて、こんな無意味な記事にすら"完成度"を求めてしまうのが私の性というものであって。

しかし、私の時間は有限なので、今日はそろそろ寝て、この記事のことはもう忘れよう。